「存在論的鬱」について
まさにもう物心がついたくらいからこの「存在論的鬱」というべきものがあったわけで、
「私は生きていけないんじゃないか」と思っていたし、
これをなんとかしなきゃならないと思っていた。
こんな実態の無いものとの戦いはほんとうに不毛なので、
ただ生きているだけで常に疲れ切っているようなところがあった。
名越先生はこの動画の中で対処法として「今の自分は自分では無いと言い聞かせる」と言っているんだけども、私がそれを自分に許したのがやっと7~8年前、うつ病の只中でマインドフルネスをやっていた頃のことだった。
今私は「自分に許す」という言葉を使ったわけだけど、つまり、
「この自分は本当の自分じゃないなんて、そんなふうに逃げちゃいけない」と思ってたわけね。
そもそも自分の感覚では「物心がついたときからなんとなくずっとあるもの」なので、「本当の自分じゃない」どころか、これが本当の自分っていう感覚だったんだよね。今でもそういう思いに囚われそうになることがままある。
名越先生によれば、5%くらいは、もしかしたら20%くらいの人にあることじゃないかというのだけど、まあ、今ならそんな気もするけれど、「もしかしたら私だけなんじゃないか。だってみんなふつうに生きているように見えるもの。もし私がこんなふうだって知られてしまったら誰にも受け入れてもらえないだろう。」と、ずっとずっと思っていた。
この存在論的鬱というものがよく表現されているのは太宰治の「トカトントン」という小説かと思う。で、じゃあ私が太宰にはまったかというと、そうじゃないんだよね。
私は答えが欲しかったから。
そういうものを表現していて、でもその中に克服法を見出したとかいうのがあるでもなく、30代なかばで自死したわけなんだから、とか。笑
もうこういう発想がそもそもダメなんだけど。
「この問題をなんとかしなきゃ生きていけない、この問題かなんとかならなければ生きていることにならない」
生真面目なんだかバカなんだかしらんけど、とにかくそういうふうにしか考えられなかったわけ。
幽霊と戦って勝つ方法なんか無いよ・・・・・・・。
そんなふうなので、別に特に辛いことがあるわけでなくても、楽しい日々が続いていても、むしろ幸福感を感じているときほど、生きていることが辛かった。
もう、こうやって言葉にしただけでほんとうにおかしなことなんだけど。
特に辛いことがなかったり幸福感を感じたりしていたわけでしょ?現実には。なんでそっちを見ないの?っていう、ね・・・・。
まあでも、見られないんだよねえ。。。。
で、私が傍から見てどんよりと暗い様子かというと、むしろその逆なんだよね。だってそれはバレちゃいけないことだから。堂々と暗い様子を人に晒していられるようならまだ楽なのかもしれない。ということで、アダルトチルドレンの道化そのものであり続けなければならなかった。
存在論的鬱に囚われている私も、道化の私も、どちらも本来の私では無い。なんて言ったら自分がどこにも居なくなっちゃう・・・・という、これがまた間違いなんだよね。
そのどちらでもない中で、もしくはそのいずれかを身にまといながら生きてきた私というのが現実にあって、それに目を向けようとしたことが無かったから、居ないような気がするだけ。
あまりも近視的にものを見すぎている。もう少し離れて、俯瞰的になれば現れてくる。
慣れないのでまだまだ何度も間違える。
亡霊とは戦わない、ただ消え去るのを待つ。
そして、
亡霊からただ目を背けるためだけに頑張るようなことはやらない。←道化ってこのためにやっているのだと気付いたのはごくごく最近のこと
どこからも気力が出てこないような気がするのは、この、亡霊ありきの基準で何かに挑もうとするからだ。
慣れないので、何度も間違える。
でも、もう気づいているから、引き返すことは無いんだ。