労働なんか嫌いだ
なんか、前に書いていたブログにログインできなくなった。。。
登録のメールアドレスわかんないし。
面倒なので新しく作成。
去年はほんとうにこれでもかってくらい嫌なことが続いた。
そういうときってある、そのうち落ち着くものだこういうのは。
と、なんとかやり過ごそうとするたびに、また問題が起こる。
トドメが年末にやってきて、これが、ここ10年余りの蓄積を無に帰してしまうもので、
とりあえずの事態は収拾がついているのものの、じわじわと尾を引く。
そんなわけで、季節の変わり目の不快感も加わり、どうにも気が晴れない状態が続いている。
とはいえ、今年に入ってからはどうやら、昨年のわけのわからない機運のようなものは収束したっぽい。(あまりに不条理で、機運としか言いようがない)
ただ、色々な状況が以前とは変わった。そして、まあ、それも受け入れつつある、というようなところだろうか。
父が要介護になった。急なことで、母のほうがこの一年間ずっと様子がおかしかったので、それが私にとってはかなりの負担だった。やがて父が自分の現状をまあまあ受け入れるようになるとともに、母の方も落ち着きを取り戻した。そんな感じなので、母が元気なうちはまあまあなんとかなっていくだろう。
歳をとって弱っていくのは自然なことなのだから、色々あってもなんとかなるだろう。
困っているのは、暮れのトドメのほうだ。
やっと仕事らしくなってきたのに。もう、現状維持も難しいだろう。
少ない収入とはいえ、このくらいならなんとかと思っていたけれども、
そこからさらに、一気に半減だ。
もう、いいんだけど。お金のことには拘らないけど、でも、もはや今後の暮らしが不安になるレベル。
それでも続けなければならない。無収入というわけにはいかないもの。そりゃ、鬱々ともするよね。
なんとか自分の好きなことが仕事になってくるまで、頑張ったんだけどな。
それが、他人の嫉妬による嫌がらせのようなことで行き詰まってしまうなんて。
実質的にはもう完全に敗北なわけだけれども、なんかもう、そういうのはいいのだ。
出る杭なので打たれたのだ。
出る杭をわざわざ打ってくるような性根がおかしいやつなんか憎くもないし。
私の作るものが美しいことには変わりない。人が妬むほど美しいということだ。
お金よりも誇りのほうが大切。
誇りじゃ食えないのが困るんだけども。
私にも反省すべき点はあるんだけどさ。
反感を買われるのもある程度仕方ないと、さすがにこの歳(50代なかば)になれば理解できる。
「なんか文句ある?頑張ってもいないやつにどうでもいいことで批判される筋合いは無いね。」
っていう私の心の声が漏れてるんだよね、やることなすことに。笑
心の声漏らすなよ、もっと慎重にやれよ。
わかっちゃいるけど、できないねえ・・・。
やっかみっていうのは、弱さの現れなので、
強い者(ほんとうは強くなんか無いんだけどな)が普通に何かしているだけで、弱い人の心は傷つくんだよな。
私があなたに何をしたんだよ?なんだけども、人間てそういうものだから仕方ない。
仕方ないのだけど、そういうのに関わりたくなんかない。
というわけで、存在を黙殺してしまうわけなんだけど、そうすると彼らはより傷つくというわけで、増幅されたその負のパワーは怒りとなり攻撃へと向かう。
だから、まあ、不本意ながらも自業自得な側面はある。
「人間てそういうものだから」って、そこまでわかっているのなら、もう少し優しくしろよってことだ。
「うまくやる」っていうのはそういうことだ。配慮ってそういうことだ。「当たらず障らず」の消極的な姿勢には「優しさ」っていう側面だってある。
そういう優しさに欠けるのだ。
まあ、そういうことなんだけど、結局、
「めんどくさっ!バカの考えてることなんか知るかよ!」
となってしまうわけで、今後も同じような失敗を繰り返しかねない私だ。
もういいや。せいぜいやりすぎないように気をつけるくらいで。
好きなことがなんとか仕事になったところで、
好きなことだけやってるわけにはいかない。
気の進まない面倒な作業に追われる。
それでも腐らずになんとか続けていけるなら幸いなことだ。
それが天職ってものなのかもしれない。
このバランスが、遂に崩れてしまった。
見合わない・・・・。
今までなら収入が見合わなくてもまあまあやってこれたけど、
見合わないのにも限度ってもんがある。
だからもう、ほんと、やる気がしない・・・・。
それでもお客様もいることでやめるわけにもいかない、
見合わなくても無収入ってわけにはいかない、
それだけの理由で、こんな面倒なことやってらんないよな・・・・。
好きな仕事が労働になってしまいつつある。
労働なんか嫌いだ。
例え高収入でも労働なんか嫌だというのに。
食うために働く、それは多分当たり前のことらしいのだが、
死んだほうがマシなレベルで苦痛だ。
人間そう簡単に死ねないものだから、私の場合は簡単にうつ病になる。
いわゆる「病気に逃げる」ってことなのだろうけど、
あんなしんどい病気と引き換えてしまうくらい嫌なんだ、「食うために働く」という、この当たり前が。
「メシ、馬鹿野郎」って、内田裕也かよ・・・・。
で、鬱々としててもしょうがないわけで、
ほんとうのうつ病を再発させるわけにもいかないので、
どうしたものかと。
別にまた完全に高齢ニートに成り下がっても生きては行けるかもしれないけど、
そういう問題じゃないし。
今の仕事は、とりあえず、やめるわけにはいかないので、続けるしか無い。
でも、この現状維持はいずれ破綻する。
生活の足しにアルバイトでも始めようなんていう選択肢は最初から無い。
労働と化した好きだった仕事にさらに定期収入のための労働が加わったら・・・
って、これ、普通の人が普通にやってるかもしれないことなんだけど、
たったこれしきのことで精神がやられてしまうのが私、が前提だからね。
考えるともなく、そんなことを思い続け、鬱々としちゃうわけだ。
まだ困ってもいないのに。
ああやる気しねえ~~~と、毎日が過ぎてゆくのも、もうそろそろ限界だろう。
で、どうするんだよ。
こういうときは頭で考えちゃだめだ。
漠然とした気持ちの方にフォーカスする。
どんなに荒唐無稽でも否定しない。
目的意識を持たずに考える。
そもそも、今までの仕事は、なんとかなっていたとはいえ、
気が乗らないことも多くなっていて、
「なんか新しい発想とかでなんかしないとなあ」
という段階に来ていた。
そして、その「新しいなにか」ってのがさっぱり掴めなかった。
掴めないんだけど、漠然とそう思っていたのは事実で。
潮時ってやつが来ていたのかもしれない。
今度の事件はただのきっかけに過ぎないことなのかもしれない。
そして、「新しい何か」って、まず、初めてみないとわからないんだよね。
いつもいつも、迷ったときは、
もういいや、後のことなんか知らない、やりたいことをやろう。
それだけで。
それはいつも、すぐには何ももたらしはしないけど、
大きな意味で何かに繋がって来るものだと。
そういう不確かなことに全てを委ねてしまうのが怖かったのはもう昔の話で、
今はそれが一番信じられる。
とりあえず明日の生活に困るわけでは無いのだし、
ゆっくりと気持ちを開放するところからまた始めよう。
忙しさに後回しにしているうちに忘れてしまった何かがあるはずだ。
思いっきり絵を描きたかった
文章をもっと書きたかった
思いつくのはこれくらい。
どちらも全く今更仕事に繋がりそうもないことだけど、
手を付けているうちに何か見えてくるように思う。
駄目なら駄目でいいさ。
ただ楽しむだけで終わってもいいさ。
本当に生活に困窮してしまうのなら、それはその時に考えよう。
今の自分にできることだけを見ていたら、新しいものには出会えない。
短い人生、やりたくないことを頑張っている暇はない。
でも、めんどくさいな、こういう生き方は。
まあ、生きることなんてそもそも面倒くさいことばかり。
なのに、ほんとうに、たまの一瞬に、「生きててよかった」なんて思うことがある。
だから頑張ろうなんて思えるほど単純でないこの自分が、そもそも一番めんどくさい。
鬱の病にとっぷりと侵されていた頃によく思った。
なぜみんな普通に生きていけるのだろう?
私は、物心がついた頃から、生きることが面倒で仕方なかった。
こんな自分は何か、根本的に間違っているのに違いない。
ちっとも間違ってなんかいなかったみたい。
生きることはほんとうに面倒くさい。
それが、少なくとも私にとっては真実で、
それを受け入れたことでやっと人生が始まったようなものだ。
めんどくさいけど、別に、それでもなんとかやっていけるもんだ。
人生は素晴らしい
そんな前提で生きられるほど頭悪くない 笑
だからなんだかいちいち大変だ。
それでも、やっと、今は、自分の人生を信頼できているように思う。
まあ、なんとかなるさ。
”探しものがあるのではなく 出会うものすべてを待っていた”
そんな感じでできたらいいな。
探そうとするから迷う。見えるもの全てを受け入れる気持ちでいられさえすれば。
”見えるものだけ それさえあれば だとりつけない 答えはないぜ”
ほんと、そうなんだけど。シンプルにそれだけなんだけど。
ありのままに見ることを忘れてしまうから、「わからない、なにも見えない」ってなる。まあ、でも、そういうときだってあるよね。
そんなことがそのまま感じられるようでちょっと元気が出る、最近のお気に入りだ。